「相性」という痛み分け
人付き合いというのは難しいものです。初対面からものの数分で、まるで数年来の友人のように会話できるような人を見ると、どんなステータス割り振りをしたのか覗き見たくなる気分。
打ち解けの早さだけではありません。嫌いな人との付き合い、自分がどう思われているかが常に気になる癖、読みたくない空気を読ませられる状況――思い当たる節がある方もいらっしゃるかもしれません。
言うまでもありませんが、筆者はこれらが全て非常に苦手です。だからこそこうやってブログにしたりしているわけですが。かと言ってさすがに愚痴を書き連ねるだけではブログでやる意味がないですよね。今日扱いたいテーマ(というかシチュエーション)は「相手はそんなに悪くないのに自分がとても不快になってしまい、そのことが相手に伝わって謝ってきたような場合」です。これは非常に困ります。具体的なケースを見てみましょう。先日筆者が実際に体験したことです。
続きを読む陰謀論、バッシング、言語解釈の無限性
「20代ひきこもり系非正規女子」と自称する著者の方が書かれたブログ記事です。記事内容とは関係のない容姿や年齢、性別に対するバッシングのコメントに対する意見が書かれています。
この人の記事は一度見たことがあるのだけれど、非常に鋭い考察だと感じました。(前見た記事はこれ↓)
「一億総ツッコミ時代」といいますか、とにかくどんなレベルであれ批判しておきたい人たちが、特にツイッター以降わんさか出てきているように思いますが、こういう時代で考えなければいけないのはやはり言語解釈の無限性についてです。
とにかく言語は「こういった解釈は不可能」ということがなくて、あらゆる解釈がフラットに開かれている状態の上に「妥当性、信憑性」っていうフィルターがある感じ。
しかもこの「妥当性」っていうのがまた厄介な代物で、例えば「明日は西から日が昇る」みたいなトンデモ言説だとさすがにほぼ万人に対して妥当性0になるだろうけど、解釈によっては妥当かどうか微妙なところはいかようにも解釈で粘れてしまう(この理屈を徹底的に使い倒しているのが陰謀論者)。
物的証拠はこの妥当性を一気に高めるものではあるけど、それでさえも場合によっては再解釈できてしまうし、出せなければ出せないで陰謀論的に解釈を重ねてくる人に対してはもう太刀打ちが出来ないわけです。
結論としてそういう人たちはもう「放っておく」しかないのかなと。数だけ群れてありもしない総意のようなものを作り上げる面倒な性質はありますが。最近は逆にそういったものを利用する炎上商法というのも出来てきたようですし。柳に風というか柔よく剛を制すというか、逆利用的な試みは非常に小気味いいので大好きです。あまりよく思わない人もいるみたいですけどね。
あ、ちなみに僕は自称プラグマティストなので、記事内容が自分のためになればどういう人が書いていても別にいいかなという感じです。ましてやこういう学術的に面白い内容ならなおのこと。皆さんはどうお考えでしょう。
自尊心は何も生まないか?
自尊心って厄介だよね。人間の行動を抑制する感情っておもに自尊心と羞恥心だと思う。羞恥心からの行動抑制は程度によっちゃあ人生を彩るが自尊心はダメだ!何も生まない。でも自分に自信がないのはそれはそれでいけないから困ったものだよ。中庸を説きたいけど…やっぱり自尊心は扱いにくいなあ。
— にせもの (@kyoooma98) March 14, 2012
こういう考えの人もいるのか。
自尊心と羞恥心が行動を抑える・控える契機になるのは確かだけど、僕は羞恥心からの行動抑制こそ人生を彩らない、それどころかむしろ平板化していくものだと思うのだけど。
というより、人生を彩らない自尊心は、果たしてちゃんとした自尊心といえるのかどうか。
初投稿
とりあえずあまり意味のない儀式的な初投稿をば。
そろそろ自分の考えたことをまとめる場所が欲しくなってきたのでブログを作ることにしました。
このブログのドメインにもある通り、考えているうちに腐りかけてきた(精神的な意味で)人が著者なので、あまり難しいことを考えずに気楽に生きていきたい方、あるいはそんなことを考えている時間的、精神的余裕のない方にはオススメできません。
逆にある程度のそういった余裕があり、なおかつ著者と同じような(に)悩みや疑問を持っている人とはいろいろ交流したいと考えています。ブログ全盛期も過ぎたしテーマがテーマだから難しいかもしれないけど。
ここではツイッターほど軽々しく発信しませんので、冷やかしのコメントとかは遠慮いただくとありがたいです。