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【書評】言葉/世間/漫才――又吉直樹『火花』文藝春秋

 

火花

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 とある花火大会の片隅の出し物会場で、二人の漫才師が偶然出会うところから本作は始まる。本作の語り手である徳永は、先輩芸人である神谷の破天荒な漫才と哲学に心動かされ、程なくして彼への弟子入りを決めるのだが、神谷の条件は「自分の伝記を書く」というものだった。彼とともに様々な人々と交わりあい、様々な出来事を通過していくうち、徳永は神谷の歩いてきた道を後追いするのをやめ、神谷の哲学と決別して自分の道を歩くことを決める。それでも徳永は神谷を観察し、彼の伝記をノートに書きつけることはやめない――というのがおおまかなプロットになる。

 この二人は露骨なほどあらゆる面で対照的であり、筋を追うだけの読み方でも容易に汲み取れるようなものがほとんどだが、この書評ではそれぞれの言語の違いと、それに伴う世界=「世間」、そして漫才に対する態度の違い、という点にフォーカスして、本作を読解していく際の一助となるよう筆を進めていく。

 

 まず神谷だが、彼はたいへん分かりやすく「感覚派」の人である。彼はただただ漫才師として、面白い漫才をすることに心血を注ぐ。物事の判断基準は「面白い/面白くない」の二項しか持ち合わせていない。太鼓のストリートパフォーマンスをする青年に迫って勝手に歌いだしてしまったり、ぐずる赤ん坊に自作の川柳を披露して笑わせようとしたりと、常識外れの言行は枚挙に暇がない。

 一方の徳永は完全に「論理派」の人である。彼は常に物事を観察し、考え、それを言葉で取り出そうとする。属性はほぼ小説の語り手のテンプレートと言ってもいいだろう。彼が参加したライブの打ち上げで、後輩の芸人たちがライブの舞台監督や構成作家と打ち解けている中、あいさつのため上座のそばまで行ったはいいものの誰も彼に気づかず、名前のない場所で存在の危機に陥るところなどは、彼が「論理の人」であることを示す名シーンである。

笑顔を貼りつけたまま上座に辿り着いた僕には誰も気づかない。僕は全ての輪から放り出され、座席でも通路でもない、名称のついていない場所で一人立ち尽くしていた。僕は何なのだろう。(P81)

 こんな二人の持つ言語の違いは、当然ながら世間、つまり彼らが今生きている世界の言葉が作り出す世界との関わり方の違いにもつながってくる。徳永の場合、彼が観察する人、考える人、書く人である以上、必然的に彼は世間を意識せざるを得ない。そもそも論理というのは、人間がお互いをある程度の水準で理解するのに用いられるプラットフォームだからだ。「批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる(P32)」と断言する神谷に「でも僕、物事を批評することからは逃れられへんと思います(P32)」と応じるシーンや、終盤に神谷の漫才哲学と決別するシーンの「僕の眼に世間が映る限り、そこから逃げるわけにはいかない(P115)」という彼の台詞などが、そのことを端的に示している。

 

 一方の神谷はというと、彼は実のところ言語の面で世間に生きていない。たとえ彼が言葉を使っていたとしても、それはどこまでも純粋に「神谷の言葉」であって、それが「世間の言葉」となるときには、すでに世間そのものが変わっていなければならないからだ。神谷が漫才を批評する側に立つのを断固として拒否するのも、批評というものが論理や、言葉の辞書的な意味など、現時点で他者と強固に共有している要素を使って、理解の共有が可能な形式で示されるものだということを(それこそ感覚的に)理解しているからだろう。神谷はそんな批評的な言葉の使い方をできるだけ避けているし、また得意でもない。物語終盤、面白いと思ったからというただそれだけの理由で自身に施した豊胸手術を徳永に正論で返されて詰まるシーンも、元はといえば「一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまう(P32)」と「面白いかどうか以外の尺度に捉われるな(P64)」という、自身の発言の論理矛盾から引き起こされた当然の帰結であった。

 「神谷さんが相手にしているのは世間ではない。いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。(P114,115)」と徳永の言うように、神谷は世間の中に身を置きながらも、漫才に関しては全く世間と向き合っていない。むしろ漫才師としての自分が、世間そのものを包み込むことを目指しているかのようですらある。つまり、面白いか面白くないかを世間が判断するのではなく、自分のすることなすことが全て面白くなるように世界そのものを変えていくような、そんな野望が感じられる。神谷の漫才が「誰もが知っている言葉を用いて、想像もつかないような破壊を実践する(P32)」ものだということ、彼の信念が「美しい世界を、鮮やかな世界をいかに台なしにするかが肝心(P30)」「そうすれば、おのずと現実を超越した圧倒的に美しい世界があらわれる(P30)」といったものであることからも、その野望は滲み出ている。

 本作の冒頭、神谷と徳永が初めて出会い、飲み屋で語りあう場面で「漫才師とはこうあるべきやと語ることと、漫才師を語ることとは、全然違うねん(P17)」と神谷は言う。恐らく神谷は、漫才師とはこうあるべきだ、という語りは論理によって成されるもので、漫才師とはこうだ、という語りはもっと感覚的な、実のところ本質的には言語化不可能で、現に示されるか、あるいは「神谷の言葉」でしか表わしようのないものだ、ということを悟っているのではないだろうか。実際に、引用のあとには、本物のボケと本物のツッコミの例が神谷によって「示されて」いる。

 そう考えると、神谷にとっての漫才とはエンターテイメントの枠をはるかに超えた、最早生き様そのもの、あるいは(世界を破壊するという性質上)アートと呼んで差し支えないものであり、一方の徳永にとって、漫才とはどこまでいってもエンターテイメントなのである。これまで再三述べてきたような徳永の性質から考えれば、このことは当然だとも言える。

 だからこそ神谷は、徳永に自分の伝記を書くことを依頼した。神谷は自分で自分の伝記を書くことは決して出来ない。仮に書いたとしても「神谷の言葉」になってしまうか、不慣れな「世間の言葉」になるかのどちらかであり、前者なら示されたものを知っている人物しか理解できず、後者なら先のように論理の破綻に陥るのが関の山だ。「世間の言葉」に通じており、なおかつ「神谷の言葉」が示すものも知っている徳永以外に、彼の伝記を書ける人間はいないのである。

 そんな徳永を、神谷も自身の野望で包み込みたかったのだろう。しかし先に述べた豊胸手術の告白シーンで、その不可能性は確実となる。

世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それは、ほとんど面白くないことと同義なんです(P142)

 神谷の漫才哲学と決別した徳永はそう言い放つ。それはとどのつまり、観察してしまうことからも、考えてしまうことからも、世間と向き合ってしまうことからも逃げない道を選んだ徳永なりの結論であり、神谷に「ただ幸せになってもらいたい(P140)」という想いからの、叫びにも近いものであった。

 

 ドーナツがその穴をドーナツとすることはできないように、またドーナツの穴がドーナツとなることもできないように、神谷と徳永の世界は、たとえ漫才という共通項を有していても、決して交わることはない。それでも徳永は、ただ神谷が存在していることを肯定し、「生きている限り、バッドエンドはない。僕達はまだ途中だ。これから続きをやるのだ。(P148)」と締めくくって、相変わらず純粋に自分を生きる神谷の様子を観察し、ノートに書きつける。

 この二人の姿は、奇しくも古代ギリシアの対照的な二人の哲学者と重なる。語りで世界を変えようとしたソクラテスと、彼の一番弟子であり、彼の言行を書き残しながらも、独自の路線を歩もうとしたプラトン――この二人の物語は当然、二人の死、そして二人をはるかに凌駕する大哲学者・アリストテレスの登場によって幕を閉じることになる。だが、神谷の伝記はまだ完成していないし、その伝記である本作も、その意味では完結してはいない。徳永の言うとおり彼らの物語はまだ途中で、どんなエンディングが待っているのかは、その主人公である彼らでさえ、知らされてはいないのである。

 

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