「努力しろ」という暴言
世の中には様々なアドバイスがあります。
全くアドバイスのつもりなく言ったことが意外な効果を発揮してしまったり、逆に聞きたくもないのになんの意味もないアドバイスを聞かされる、といったパターンもありますね。
特に厄介なのは後者です。この記事のタイトルにもなっている「努力できない人たちにただ『努力しろ』と言う」というのはその最たるもので、ほとんどの場合これは何の意味もないアドバイスですね。
なぜかといえば、「努力できない人たちに努力をさせたい」と本気で考えている人は「努力しろ」ではなく、その人たちがどうにか努力をできるような言行をするはずだからです。もう説明するのも野暮なくらい当たり前なことだと思うのですが、世の中には「努力しろ」と言っただけで、何故かアドバイスをしたような気になってしまっているような人がたくさんおります。
これはあまりにも分かりやすい例ですが、ちょっと複雑になった場合、例えばこんなのはどうでしょうか。
太りやすい体質のAさんは小さい頃からずっと肥満ぎみで、それを改善したいとあるとき思うようになりました。
そこでスレンダーな体型のBさんにそのことを相談したところ、スタンダードな食事療法や運動療法からサプリメントの力を借りたものまで、様々な方法を親身になって教えてくれました。
Aさんは教えられた様々な方法を試したものの効果が出ず、やがてBさんは「ここまでやって効果が出ないのはAさんの努力が足りないからだ」と怒り始め、愛想を尽かしてAさんから離れていってしまいました。
このケースですと、Aさんが体質改善に失敗した理由は1つではありませんね。Aさんがもうちょっと努力していれば、というのもその1つでしょう。その他には、Aさんの体質がもっと痩せやすいものだったら、Bさんがもっと多くの方法を教えていれば、Bさんがもっと親身になってAさんのやる気を喚起させてあげられていればetc.
にも関わらずこのBさんは、Aさんの失敗の理由を努力不足という一点にだけ押しつけ、勝手に愛想を尽かしてしまったわけです。自分のアドバイスにおける努力不足の可能性は棚に上げて、実行者の努力不足のみを責めたてる――実に卑怯ですね。
「だっていくら親身って言っても、アドバイスする側にも時間あるし……」とか言い訳をしようとしたあなたも同様に卑怯です。
親身にしたなら最後まで寄り添えよ!
それができないんなら親身になんかならないことです。最初から相談に乗らないか、乗らないわけにはいかない理由でもあるならそっけなく解決策を提示しておいて、ダメだったら「残念だったね」、効果が出たら「よかったね」でオシマイ。中途半端に親身になって逆ギレなんかしてるよりかはずっとマシです。
何事もある程度の努力がなければ成し得ない部分があるのは事実でしょう。努力0で何かを成し遂げた人って、いわゆる「天才」と呼ばれる人の中の一部の人しか筆者は見たことがありません。
ただし、何かを成し遂げるのに必要な努力の量や質は千差万別なはずです。
あなたが「努力不足だ」と非難するその人は、その人が何かを成し遂げるのに必要な努力の量や質に達していないのですか?
自分が何かを成し遂げるのに必要な努力の量や質を物差しにして、他人を「努力不足だ」と非難していませんか?
筆者が今日の記事で問いたいのはそういうことなのです。