雑考集

考える葦は腐りかけが一番美味しい




ずっと「善く生き」ていると疲れる――イケダハヤト氏のポストを見て

 

つい最近岩波の『ソクラテスの弁明・クリトン』を読んだので、「善く生き」た結果不条理を受け入れることになったソクラテスの話を思い出しました。

匿名でしつこく誹謗中傷をしている人たちが「悪いことだ」という自覚があるかどうかは甚だ疑問です(もうすでにそれが悪いことだと忘れてしまっているか、誹謗中傷を正当化する虚構の大義名分に目がくらまされている人が多い印象です)が、自分の本心からはしたくないことをせず、本心からしたいことをするのが倫理的な生き方である、という氏の主張には幾分うなずけるものがあります。

ただ、自分の本心からしたいことってそんなに簡単に分かるものでしょうか? 例えば減量中にドカ食いをしてしまう(筆者は何度も経験があります)のは、減量が本心からしたいことなのであれば倫理的でない行動ということになりますが、その瞬間はきっとドカ食いのほうが本心からしたいことになっていると思うのです。

氏のおっしゃる(つい邪心に駆られてする)「悪いこと」と「善いこと」の違いとはなんなのか――線引きはなかなか難しそうですが、筆者はその瞬間我慢するとよりストレスが溜まるものが、その瞬間の「善いこと」だという風に考えています。

筆者の場合、辛いことがあったときの酒欲や食欲を我慢すると、幸せを感じているときのそれとは比べ物にならないくらいのストレスが発生します。そりゃそうですよね、ストレスのはけ口としてそういう欲が高まるわけですから。しかも元からストレスがあるところにさらに我慢することによるストレスが上乗せされますから、これは非常によろしくない。

幸い辛いことがあったときの酒欲や食欲は、長くても2~3日暴飲暴食してればさすがに体がついていかなくなりますし、大抵の場合は丸1日もやればすっきりするものです。ですから長い目で見れば「悪いこと」かもしれませんが、それを我慢することのデメリットに比べれば、という理由で自分には許可することにしています。自分に甘いですか? すみません、ストレス溜めやすいもんで……要はずっと「善く生き」ていると疲れてしまうのです。

ということで、タイトルにフィードバックしたところでお開き。おあとがよろしいようで。

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)