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雑考集

考える葦は腐りかけが一番美味しい




わたしの3.11

備忘録

今日柄谷行人の『政治と思想 1960-2011』という本を読んでいてハッと気づいたのですが、今の今まで筆者は3.11のとき自分が何をしていたか、きちんと纏めずにいました。時間と共に記憶の細部はどんどん欠落していくでしょう。今でも遅すぎるくらいかもしれませんが、大まかにでも可及的速やかに記録しておかねばなりません。思い出し次第追記していくかたちで。

 

 

2011年3月11日は、実は高校の卒業式の日でした。僕の代(1992年度生まれ)は1年の勉強合宿には大雨、2年の修学旅行にはインフルエンザと台風のダブルパンチ、3年の卒業式には3.11、その影響で大学の入学式は中止、成人式には記録的な大雪、ととにかくツイてない世代として有名なのです。

僕の高校の卒業式は少し変わっていて、一般的に想起される卒業証書授与式とあまり変わらない――1時間もかからず終わってしまうその速さを除いては――卒業式第一部と、生徒の企画で演出、実行される自由参加の卒業式第二部(卒二)というのがありました。卒二はいわゆる「ウェーイwwww」系と言いますか、リア充系と言いますか、体育祭の後夜祭などもそんな感じだったのですが、そういったイベントに縁も興味もない僕は、同じように縁も興味もない文芸部の仲間たちと部室で麻雀(ゴメン)に興じていました。

3.11が起きたのは14時46分でしたね。直前は確か緊急地震速報が鳴っていたと思います。ただそれまでも部室にいるときに一度鳴ったことがあり、そのときはぴくりとも揺れなかったものですから、一同多少警戒する程度だったでしょう。

揺れが始まっても、なんだか最初は大した揺れには感じず、どうせすぐに収まるだろうと麻雀を続行しようとしていた僕でしたが、早々にこの揺れが尋常でないことに気づいたのか、あるいは単に怖がりだっただけなのか、他の部員に追い立てられるように外に出ました。

外は2メートルほど空けてすぐ正面が武道場の裏になっていて、僕たちのいた部室棟は2階建てのかなり古い建物でした。外に出た頃には揺れもかなり大きくなっていたのを覚えています。部室棟を眺めながら「こっち(武道場)は新しいから大丈夫だろうけど、もしかすると部室棟崩れるんじゃないだろうか」という考えが頭をよぎりました。この辺りで揺れが立っていられなくなるほどになり、近くの手すりにつかまりました。恐らく人生に1回経験するかしないかの大きな地震だな、という印象でした。部室棟と学食の建物の間から見える大きな木が、風もないのにわさわさと揺れていたのが強烈に焼きついています。

しばらくすると揺れは収まりました。最初は確か、卒二をやっていた体育館を覗きに行ったと思います。当然天井の照明なんかがぐわんぐわん揺れたらしく、卒二は中断していました。

が、興味のないことに変わりはありません。そのあと僕たちは呑気なことに部室に戻り、麻雀の続きを始めました。部室は2mくらいの高さのロッカーが壁に沿って置かれていましたが、それが倒れることもなく、むしろそれくらいしか置いてあるものがなかったせいか、被害という被害は全くと言っていいほどなかったのです。もちろん、東北であんなことが起きているとはまだ分かっていない状態でした。

時系列が若干前後しますが、同期のY君の友人で文芸部準部員のHくんは地震直後からケータイでネットやツイッターにアクセスしていましたが、なかなかつながらないようでした。ただツイッターはだいぶ復旧が早かったようで、最初に「宮城で震度7」という情報と、「電話とメールは通信サービスとして死んでいるので現状ツイッターが一番確実」という情報を仕入れたのは確か彼だったと思います。これを気に僕はツイッターを始めることになり、それがきっかけで初めてのパートナーが出来たりするのですが、本筋とは離れるので今は措きましょう。

それからしばらく僕たちは部室にこもっていました。自由参加とはいえ卒二に出ず、部室で麻雀を打っているのがバレれば面倒なことになりますから、そのときはふだん電気をつける時間になっても電気をつけず、明るさ不足で牌が読めなくなるくらいまでは麻雀が続きました。

そこから僕たちはM1という、学食の上にある会議室のようなスペースに移動したのですが、その経緯がはっきりしません。確か誰かが「校内に残っている人はM1に集合」という情報を仕入れてきて、それで移動したのだった気がします。

そこで僕は初めて、ふだんはそこにないテレビ(どこからか運び込まれたのでしょう)に写った津波の映像を見たのです。ちゃんと調べれば分かると思いますが、確か八戸の漁港の映像でした。市場で使う水色のプラケースと白いハイエースとが、木の葉のように濁流に押し流されていました。なんというか、よく出来た映画でも見ているようで、絶句とか唖然とかそういう感じではなく、現実感はかなり薄かったです。ただその映像を見て「冗談だろ」と思ったのは覚えています。

日も完全に落ちてしまい、僕たちも学校にいてもすることがなくなっていました。自転車通学の部員たちは確かここで解散したのだったと思います。この辺りで卒業式に来ていた母親と合流しました。母親はバスで帰ることにしたそうで、ここでは大した会話をするでもなく別れたと思います。

そのときにはすでに電車は微動だにしていませんでしたから、電車で通う同期のYくん、T、1つ下のEなどは大変です。電車も運転再開の見込みが全くなく、帰るには車で迎えに来てもらうか、徒歩しかありません。学校では一応宿泊できるような準備も進められていたようですが、実際にどの程度の人が宿泊したのかはよくわかりません。

僕とYくんとTとE、最初に学校を出たのはEでした。理由はよく覚えていませんが、Eは「線路沿いを歩いて帰る」と言って学校を出ました。Eは4人の中ではかなり健脚な方でしたが、それでも学校からEの自宅までは20kmは離れています。そのうえ線路沿いとはいえEの家の方面に向かう道は灯りのないところがほとんどですから、このときばかりはかなり心配していたのですが、案の定Eは道に迷って立ち往生したらしく、ツイッターでそのことをつぶやいているのをYくん経由で知りました。さすがにこれはまずいだろうと2人で青ざめていると、Tがお父さんが学校まで迎えに来てくれることを知らせてきました。Eも途中で回収できるとのことでひとまず安心です。あとはTのお父さんが来るのを待つだけですから、僕も帰路に着くことにしました。

学校から僕の家までは8km強、自転車で30分くらいの道です。あの津波の映像を見たあとでしたから、こちらも道路や家屋の状態を観察しながら家路をたどったのですが、産業道路が若干渋滞をしていた程度で、特に変わった様子は見られませんでした。学校から駅まではほぼ一直線の2km弱の道でしたが、そのときそこがどうなっていたかはよく覚えていません(その道は半分も行かないうちに左に曲がってしまうのです)。

家に帰り着くと、偶然家に来ていた姉がいました。我が家はマンションの5階なので、揺れは1階にいた僕たちとは比べ物にならないほど大きかったはずですが、姉は揺れが始まるとひとまず倒れそうな本棚を押さえて、収まるとすぐに玄関から靴を持ってきて側に置き、待機していたそうです(余談ですがこのとき父親は仕事で建設中のマンションの10階にいたとのこと。10階ともなると揺れ方もだいぶ違うようで、振幅の大きい「ぐらーんぐらーん」というような揺れだったそうです。「周りのビルが揺れているのが見えた」と言っていました)。

外に出ていた家族の中で最も早く辿り着いたのは僕だったので、一通り部屋の被害状況などを見て回りました。結局自室のマンガとフィギュアがいくつか、洗面所の引き出しから化粧用品がいくつか落ちていた程度で、こちらも被害という被害はありませんでした。台所の食器棚は驚くべきことに扉すら開いていなかったのですが、これは運良く揺れの方向と棚の長辺が水平で、扉の開く方向とちょうど垂直になったからのようでした。

そこから先は気もだいぶ緩んだせいか、記憶がかなり曖昧です。ただ本震後1~2日は緊急地震速報のアラーム回数も半端でなく、アラームが鳴るたびに飛び起きて机の下に飛び込むのを強いられました。

ここから先は原発事故の問題が出てくるのですが、ひとまずここで区切りましょう。これ以降はツイッターのログがかなり残っているので、続きを作るかどうかは未定です。

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