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雑考集

考える葦は腐りかけが一番美味しい




お嬢様言葉はギャル語だった――「本当の日本語」について

 いつの時代も「最近は若者の言葉遣いが崩れてきておかしな日本語が蔓延している」という話題は尽きることがありません。実際言葉は変容していますし、その変容が世代によっておかしなものと認識されることもまた事実でしょう。

 とはいえこういった「おかしな日本語」に対して、逐一目くじらを立てるのも詮無いことです。そういった人たちは恐らく「あるべき『本当の』日本語の言葉遣い」というのがどこかにあり、それから外れていると感じたときにその言葉遣いを糾弾しているのでしょうが、それとは対照的な「いわゆる『本当の日本語の言葉遣い』はどこにもない。あるのは常に過去の言葉遣いだけで、その正当性は一定の期間を隔てたのちに、それを使っていた話者の数とそれが使われていた期間から遡及的に決定される」という考えも、同じくらいの説得力を持っているように思われます。

 

 実際、昔の言葉遣いが当時と今とでだいぶニュアンスが変わってしまった例はいくつもあり、その代表的なのがいわゆる「お嬢様言葉」です。今でこそ「貴族」「高貴な身分の人」「姫キャラクター」といったものの代名詞のように扱われているお嬢様言葉ですが、その起源は大正時代、女学生の間で広まったものとされています。では当時の人々もこのお嬢様言葉を高貴なものと見ていたかというと、実はその正反対、若者の乱れた言葉だとして眉をひそめていたらしいのです。

 よくよく考えてみるとこれは当然のことで、当時の女学生は今で言えば中学生か高校生くらいの年頃ですし、女子教育も大衆に広く普及し始めた頃でしたから、今の中学生や高校生の状況とは異なる部分もあるとはいえ、社会人からすれば「小娘たち」には違いなかったわけです。そんな小娘たちの使う言葉ですから、無理やり現代に置き換えて喩えるとすれば一番近いのはJK言葉、ちょっと古いものだとギャル言葉でしょうか。お嬢様言葉のイメージとは対極にある言葉ですよね。

 

 なぜお嬢様言葉が高貴のイメージを持つに至ったかは定かではありませんが、長い昭和という時代の間のさまざまな変遷によって、懐古的に新たな価値が付与された、というのが一番確率は高そうです。

 特に昭和は敗戦という、日本文化を考えるうえで無視できない大きな断絶がありましたから、自国文化に対する愛や誇りが敗戦によって無残に打ち砕かれ、惨めな現実を日々突きつけられる状態において、日本が類まれなる好景気に湧いていた大正時代を古き良き時代として理想化し、当時使われていた言葉を、今はもうなくなってしまった華族(華族令は戦後2年ほどで廃止され、以後日本には身分としての「高貴な人」は皇族以外いなくなりました。地味ですがこのこともかなり重要です)のものとして懐古したとしても、さほどおかしなこととは言えないでしょう。

 

 こういった具合に、言葉遣いは時代によって様々に捉え方が変わりますし、場合によってはその変化によって、過去正しかったものが今間違いになっている例も多数見られます。今この現代において「宿命」を「しゅくみょう」と読む人は明らかにマイノリティでしょうし、「独擅場(どくせんじょう)」に至っては「独壇場(どくだんじょう)の間違いでしょ?」と言われることのほうが圧倒的に多いはずです。そういっためまぐるしい言葉の変化の中において、ぼんやりとした「あるべき本当の日本語の言葉遣い」を想定することには、何かの意味があるのでしょうか。