雑考集

考える葦は腐りかけが一番美味しい




バトらない評論同人誌界隈

あまりに放置しすぎて更新が億劫になってきたので、軽めの記事で更新してみるテストを兼ねて。

今日の題材は、ぼくがちょっと前からツイッターでフォローしている思想哲学畑の方の記事です。

1.5年間評論同人誌製作をしてきての気付き その1 - 反-物語評論.blog  

 

 

氏によると、評論同人誌の界隈ではプロの文章の引用はあっても、界隈どうしでの引用のしあいや、引用することによるある種のバトルのようなもの(氏はこれをプロレスに似たもの、「ピロレス」と仮に名付けている)はほぼ皆無だそうで。

したがって現在の評論同人誌の界隈は、書き手どうし、サークルどうしでバトることもなく、蛸壺的に自分の興味関心を追求し、純粋な自己表現をする場となっている、と氏は述べています。

ぼくも多少思想哲学をかじっている人間なのでよく分かりますし、氏も仰っていることですが、評論にはある種の攻撃性(「エッジが利いた」という形容をよく耳にします)が不可欠です。というより、これまでにない価値を持っている評論は、必然的に誰かを怒らせることになってしまうケースが多い。これはこれまでにない価値を生み出す過程で、これまであった価値の否定というプロセスが入ることが多い、というのが理由の1つに挙がると思います。

当然それは自分の敵を作る可能性にもつながっているわけで、攻撃されたくない、あくまで自分の快適な環境で自己表現をしたい、という感情が、このエッジを失わせ、評論を盛り上がりのない場にしてしまっているわけですね。

 

個の性質がより把握しがたいものに変わってきていること、この国は怒りを形にするよりしないほうが得が多いこと、資本経済の理屈が人々の行動理論にまでほぼ完全に染み渡っていること、理由は多々あると思います。ですがその理屈に乗ったうえで価値のある評論を生み出すのは、ほぼ不可能に近いのではないでしょうか。そういった意味で、評論とはアートに近い面を持っているとも言えるかもしれません。

ぼくの学部は性質上、評論や批評の畑で活躍している先生が数多く在籍しています。やはりそういった人たちの発言を聞いたり、文章を読んだりしていても、一番求めているのは「自分にはまるで思いつかなかった、思わずアッと声を上げてしまいそうな指摘」であることはほぼ確実です。「そのためなら私の論説が批評されることも全く厭わない」と公言しているくらいですからね。

 

今日は短く終えることをモットーに記事を書いているので、これ以上の詳しい説明は割愛ということで。この辺りはベースとして東浩紀の『動物化するポストモダン』、最近の発展事例として内田樹岡田斗司夫の『評価と贈与の経済学』、諏訪哲二の『オレ様化する子どもたち』あたりが参考になるはずです。

ではでは。

 

 

 

後記

文字数押さえてスピーディーに、簡潔に書くことをモットーとすると非常に内容の薄い記事しか書けそうにない。

面倒でも頑張って気合入れて更新しよ。