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雑考集

考える葦は腐りかけが一番美味しい




【サプリレビュー】食欲と戦うならザントレックス以外に選択肢はない

ご無沙汰しております。

どうやらけっこうな数の方が、私のこの記事からサプリメントを買ってくださっているようで。

当初はネタ切れ回避の記事でしたが、それが当ブログで一番の閲覧数というのは不思議なものですね。

 

そんなこともあり、今回は別のサプリメントを紹介してみようかと。

 

5-HTPは精神を安定させる効果のほか、食欲を抑える効果もあるため、減量目的で使われる方も多いようですね。

減量に使えるサプリメントはたくさんありますが、そのほとんどは作用別にこのように分けることができます。

 

①食欲自体を抑えるもの

食欲自体に作用して、食べ過ぎを防ぐサプリメントです。

私がすでに紹介した5-HTPもここに当たります。

 

②養分の吸収を抑えるもの

摂取した糖分や炭水化物、脂質を、体に吸収させないようにするサプリメントです。

当分ではギムネマ、炭水化物では白いんげん、脂質ではキトサンなどが有名ですね。

当ブログでも追々紹介していく予定なので、お楽しみに。

 

③養分の分解を促進するもの

吸収された養分(主に脂質)を分解させやすくするサプリメントです。

L-カルニチン、CLA(共役リノール酸)などが有名です。

運動と併用するものが多いです。

 

どれも私自身で試したものがいくつかありますので、今後はそれを紹介していきます。

 

第一弾は、上のリストの①、食欲と戦うときの強力な味方、アメリカ出身のザントレックスです。

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【書評】言葉/世間/漫才――又吉直樹『火花』文藝春秋

書評

 

火花

火花

 

 

 とある花火大会の片隅の出し物会場で、二人の漫才師が偶然出会うところから本作は始まる。本作の語り手である徳永は、先輩芸人である神谷の破天荒な漫才と哲学に心動かされ、程なくして彼への弟子入りを決めるのだが、神谷の条件は「自分の伝記を書く」というものだった。彼とともに様々な人々と交わりあい、様々な出来事を通過していくうち、徳永は神谷の歩いてきた道を後追いするのをやめ、神谷の哲学と決別して自分の道を歩くことを決める。それでも徳永は神谷を観察し、彼の伝記をノートに書きつけることはやめない――というのがおおまかなプロットになる。

 この二人は露骨なほどあらゆる面で対照的であり、筋を追うだけの読み方でも容易に汲み取れるようなものがほとんどだが、この書評ではそれぞれの言語の違いと、それに伴う世界=「世間」、そして漫才に対する態度の違い、という点にフォーカスして、本作を読解していく際の一助となるよう筆を進めていく。

 

 まず神谷だが、彼はたいへん分かりやすく「感覚派」の人である。彼はただただ漫才師として、面白い漫才をすることに心血を注ぐ。物事の判断基準は「面白い/面白くない」の二項しか持ち合わせていない。太鼓のストリートパフォーマンスをする青年に迫って勝手に歌いだしてしまったり、ぐずる赤ん坊に自作の川柳を披露して笑わせようとしたりと、常識外れの言行は枚挙に暇がない。

 一方の徳永は完全に「論理派」の人である。彼は常に物事を観察し、考え、それを言葉で取り出そうとする。属性はほぼ小説の語り手のテンプレートと言ってもいいだろう。彼が参加したライブの打ち上げで、後輩の芸人たちがライブの舞台監督や構成作家と打ち解けている中、あいさつのため上座のそばまで行ったはいいものの誰も彼に気づかず、名前のない場所で存在の危機に陥るところなどは、彼が「論理の人」であることを示す名シーンである。

笑顔を貼りつけたまま上座に辿り着いた僕には誰も気づかない。僕は全ての輪から放り出され、座席でも通路でもない、名称のついていない場所で一人立ち尽くしていた。僕は何なのだろう。(P81)

 こんな二人の持つ言語の違いは、当然ながら世間、つまり彼らが今生きている世界の言葉が作り出す世界との関わり方の違いにもつながってくる。徳永の場合、彼が観察する人、考える人、書く人である以上、必然的に彼は世間を意識せざるを得ない。そもそも論理というのは、人間がお互いをある程度の水準で理解するのに用いられるプラットフォームだからだ。「批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる(P32)」と断言する神谷に「でも僕、物事を批評することからは逃れられへんと思います(P32)」と応じるシーンや、終盤に神谷の漫才哲学と決別するシーンの「僕の眼に世間が映る限り、そこから逃げるわけにはいかない(P115)」という彼の台詞などが、そのことを端的に示している。

 

 一方の神谷はというと、彼は実のところ言語の面で世間に生きていない。たとえ彼が言葉を使っていたとしても、それはどこまでも純粋に「神谷の言葉」であって、それが「世間の言葉」となるときには、すでに世間そのものが変わっていなければならないからだ。神谷が漫才を批評する側に立つのを断固として拒否するのも、批評というものが論理や、言葉の辞書的な意味など、現時点で他者と強固に共有している要素を使って、理解の共有が可能な形式で示されるものだということを(それこそ感覚的に)理解しているからだろう。神谷はそんな批評的な言葉の使い方をできるだけ避けているし、また得意でもない。物語終盤、面白いと思ったからというただそれだけの理由で自身に施した豊胸手術を徳永に正論で返されて詰まるシーンも、元はといえば「一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまう(P32)」と「面白いかどうか以外の尺度に捉われるな(P64)」という、自身の発言の論理矛盾から引き起こされた当然の帰結であった。

 「神谷さんが相手にしているのは世間ではない。いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。(P114,115)」と徳永の言うように、神谷は世間の中に身を置きながらも、漫才に関しては全く世間と向き合っていない。むしろ漫才師としての自分が、世間そのものを包み込むことを目指しているかのようですらある。つまり、面白いか面白くないかを世間が判断するのではなく、自分のすることなすことが全て面白くなるように世界そのものを変えていくような、そんな野望が感じられる。神谷の漫才が「誰もが知っている言葉を用いて、想像もつかないような破壊を実践する(P32)」ものだということ、彼の信念が「美しい世界を、鮮やかな世界をいかに台なしにするかが肝心(P30)」「そうすれば、おのずと現実を超越した圧倒的に美しい世界があらわれる(P30)」といったものであることからも、その野望は滲み出ている。

 本作の冒頭、神谷と徳永が初めて出会い、飲み屋で語りあう場面で「漫才師とはこうあるべきやと語ることと、漫才師を語ることとは、全然違うねん(P17)」と神谷は言う。恐らく神谷は、漫才師とはこうあるべきだ、という語りは論理によって成されるもので、漫才師とはこうだ、という語りはもっと感覚的な、実のところ本質的には言語化不可能で、現に示されるか、あるいは「神谷の言葉」でしか表わしようのないものだ、ということを悟っているのではないだろうか。実際に、引用のあとには、本物のボケと本物のツッコミの例が神谷によって「示されて」いる。

 そう考えると、神谷にとっての漫才とはエンターテイメントの枠をはるかに超えた、最早生き様そのもの、あるいは(世界を破壊するという性質上)アートと呼んで差し支えないものであり、一方の徳永にとって、漫才とはどこまでいってもエンターテイメントなのである。これまで再三述べてきたような徳永の性質から考えれば、このことは当然だとも言える。

 だからこそ神谷は、徳永に自分の伝記を書くことを依頼した。神谷は自分で自分の伝記を書くことは決して出来ない。仮に書いたとしても「神谷の言葉」になってしまうか、不慣れな「世間の言葉」になるかのどちらかであり、前者なら示されたものを知っている人物しか理解できず、後者なら先のように論理の破綻に陥るのが関の山だ。「世間の言葉」に通じており、なおかつ「神谷の言葉」が示すものも知っている徳永以外に、彼の伝記を書ける人間はいないのである。

 そんな徳永を、神谷も自身の野望で包み込みたかったのだろう。しかし先に述べた豊胸手術の告白シーンで、その不可能性は確実となる。

世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それは、ほとんど面白くないことと同義なんです(P142)

 神谷の漫才哲学と決別した徳永はそう言い放つ。それはとどのつまり、観察してしまうことからも、考えてしまうことからも、世間と向き合ってしまうことからも逃げない道を選んだ徳永なりの結論であり、神谷に「ただ幸せになってもらいたい(P140)」という想いからの、叫びにも近いものであった。

 

 ドーナツがその穴をドーナツとすることはできないように、またドーナツの穴がドーナツとなることもできないように、神谷と徳永の世界は、たとえ漫才という共通項を有していても、決して交わることはない。それでも徳永は、ただ神谷が存在していることを肯定し、「生きている限り、バッドエンドはない。僕達はまだ途中だ。これから続きをやるのだ。(P148)」と締めくくって、相変わらず純粋に自分を生きる神谷の様子を観察し、ノートに書きつける。

 この二人の姿は、奇しくも古代ギリシアの対照的な二人の哲学者と重なる。語りで世界を変えようとしたソクラテスと、彼の一番弟子であり、彼の言行を書き残しながらも、独自の路線を歩もうとしたプラトン――この二人の物語は当然、二人の死、そして二人をはるかに凌駕する大哲学者・アリストテレスの登場によって幕を閉じることになる。だが、神谷の伝記はまだ完成していないし、その伝記である本作も、その意味では完結してはいない。徳永の言うとおり彼らの物語はまだ途中で、どんなエンディングが待っているのかは、その主人公である彼らでさえ、知らされてはいないのである。

 

火花

火花

 

 

お嬢様言葉はギャル語だった――「本当の日本語」について

 いつの時代も「最近は若者の言葉遣いが崩れてきておかしな日本語が蔓延している」という話題は尽きることがありません。実際言葉は変容していますし、その変容が世代によっておかしなものと認識されることもまた事実でしょう。

 とはいえこういった「おかしな日本語」に対して、逐一目くじらを立てるのも詮無いことです。そういった人たちは恐らく「あるべき『本当の』日本語の言葉遣い」というのがどこかにあり、それから外れていると感じたときにその言葉遣いを糾弾しているのでしょうが、それとは対照的な「いわゆる『本当の日本語の言葉遣い』はどこにもない。あるのは常に過去の言葉遣いだけで、その正当性は一定の期間を隔てたのちに、それを使っていた話者の数とそれが使われていた期間から遡及的に決定される」という考えも、同じくらいの説得力を持っているように思われます。

 

 実際、昔の言葉遣いが当時と今とでだいぶニュアンスが変わってしまった例はいくつもあり、その代表的なのがいわゆる「お嬢様言葉」です。今でこそ「貴族」「高貴な身分の人」「姫キャラクター」といったものの代名詞のように扱われているお嬢様言葉ですが、その起源は大正時代、女学生の間で広まったものとされています。では当時の人々もこのお嬢様言葉を高貴なものと見ていたかというと、実はその正反対、若者の乱れた言葉だとして眉をひそめていたらしいのです。

 よくよく考えてみるとこれは当然のことで、当時の女学生は今で言えば中学生か高校生くらいの年頃ですし、女子教育も大衆に広く普及し始めた頃でしたから、今の中学生や高校生の状況とは異なる部分もあるとはいえ、社会人からすれば「小娘たち」には違いなかったわけです。そんな小娘たちの使う言葉ですから、無理やり現代に置き換えて喩えるとすれば一番近いのはJK言葉、ちょっと古いものだとギャル言葉でしょうか。お嬢様言葉のイメージとは対極にある言葉ですよね。

 

 なぜお嬢様言葉が高貴のイメージを持つに至ったかは定かではありませんが、長い昭和という時代の間のさまざまな変遷によって、懐古的に新たな価値が付与された、というのが一番確率は高そうです。

 特に昭和は敗戦という、日本文化を考えるうえで無視できない大きな断絶がありましたから、自国文化に対する愛や誇りが敗戦によって無残に打ち砕かれ、惨めな現実を日々突きつけられる状態において、日本が類まれなる好景気に湧いていた大正時代を古き良き時代として理想化し、当時使われていた言葉を、今はもうなくなってしまった華族(華族令は戦後2年ほどで廃止され、以後日本には身分としての「高貴な人」は皇族以外いなくなりました。地味ですがこのこともかなり重要です)のものとして懐古したとしても、さほどおかしなこととは言えないでしょう。

 

 こういった具合に、言葉遣いは時代によって様々に捉え方が変わりますし、場合によってはその変化によって、過去正しかったものが今間違いになっている例も多数見られます。今この現代において「宿命」を「しゅくみょう」と読む人は明らかにマイノリティでしょうし、「独擅場(どくせんじょう)」に至っては「独壇場(どくだんじょう)の間違いでしょ?」と言われることのほうが圧倒的に多いはずです。そういっためまぐるしい言葉の変化の中において、ぼんやりとした「あるべき本当の日本語の言葉遣い」を想定することには、何かの意味があるのでしょうか。

なぜ「よろしいでしょうか」は「よろし『かった』でしょうか」になるのか

雑考

「こちらお箸は一膳でよろしかったでしょうか?」

「ご注文以上でよろしかったでしょうか?」

「お探しの商品こちらでよろしかったでしょうか?」

 

 お店で買い物をしたり、ファミリーレストランで食事をとったりすると、このテの謎の過去形は非常によく耳にします。「~のほう」や「○○円からお預かりします」などとひとまとめで「バイト敬語」なんていう言い方もあるみたいですね。

 言うまでもないことですが、この謎の過去形が文法的に正しい用法となるのは「一度聞いたことをもう一度確認する場合」だけです。お箸の場合だったら「つけるかどうかは聞いたのだが忘れてしまったときにもう一度聞く」という場合ですね。ですから最初の質問で過去形が使われる理由は特にないわけです。

この謎の過去形、一体どういう仕組みで現れているのでしょうか。ちょっと考察してみましょう。

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バトらない評論同人誌界隈

雑考

あまりに放置しすぎて更新が億劫になってきたので、軽めの記事で更新してみるテストを兼ねて。

今日の題材は、ぼくがちょっと前からツイッターでフォローしている思想哲学畑の方の記事です。

1.5年間評論同人誌製作をしてきての気付き その1 - 反-物語評論.blog  

 

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5-HTPというサプリメントがなんかスゴい件

ライフハック

皆様ご無沙汰しております。

 

前回の更新からけっこう日数経ってますね。この間ぼくにはチェルノブイルツアーという一大イベントがあったのですが、そっちはあまりにも壮大すぎてまとめるのが大変なので、冬季休業中に整理したいと考えています。お楽しみに。

 

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わたしの3.11

備忘録

今日柄谷行人の『政治と思想 1960-2011』という本を読んでいてハッと気づいたのですが、今の今まで筆者は3.11のとき自分が何をしていたか、きちんと纏めずにいました。時間と共に記憶の細部はどんどん欠落していくでしょう。今でも遅すぎるくらいかもしれませんが、大まかにでも可及的速やかに記録しておかねばなりません。思い出し次第追記していくかたちで。

 

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